うつくしさのはなし

でも、しかし、けれども 「だからこそ」

 

逆接からの「だからこそ」は1番うつくしい。

そういう想いをみかけると、見聞きすると、あぁうつくしいなぁ、と思う。

私自身もそういったうつくしさを大切に、卵みたいに、壊さないように、もっていたいと思うのである。

 

いつか死んでしまう。死んだら自我はなくなって、「無」なのだ。

死とは無だ。

それは初めから何もなかったのと同じ。生きなかったのと同じだ。

少なくとも死の当事者にとっては。

 

その人は昔交通事故に遭い、ひどい怪我を負って意識を失っていた、そうだ。

死んでいてもおかしくなかった。

でも今、生きている。

そのときから、死がおそろしく、あのとき死んでも、今死んでも同じじゃないか、死んだら無になる。それだけだ。という考えに至ったのだという。

 

「死に一度近づいて、それで生き続ける意味がまったくわからなくなって、(だって結局“無に帰す”なら、いつ死んだって同じだから)そのことをずいぶん長いこと考えたんだけど、ある一つの、答えを見つけたんだよね。」

「答え?」

「死を克服する何かが、生き続けていれば見つかるかもしれないって。不老不死の薬とか。」

 

死を克服する?人間が?

 

「現時点でそんなものこの世にないじゃない?人はみんな死ぬという運命には抗えない。でも生きてれば、何が起こるかわからない。いつか、あと何十年か生きれば、死を怖がらなくて済むようになるかもしれない。」

 

目から鱗、である。

生まれてくれば、死ぬ。それは生物の宿命だ。逃れることはできない。

死は、生の大前提で、変えられないルールである、と思っていた。

 

人類なら、死から逃れることができるかもしれない、とでもいうのだろうか。

私たちが死ぬまでに、技術的にそれが可能になる可能性はなくはない。

科学技術は発展し続けている。不可能だと思われていたことが、いくつも可能になった。

だとしても。

 

可能だったとして、それを人類は実行するんだろうか?

それの実現を人類は望むんだろうか?

と、思ってしまった。

 

「いやだよ、私は永遠に生き続けるなんていやだな」

 

そのときは、私は、そう言った。

生きていたいけれど、永遠の命なんて得たくない。

それは本心だ。きっと本心だ。

 

じゃあ“無に帰す”ことを受け入れることができるだろうか?

と言われると、それも怖い。みんなそうだからといって、平気だとは思えない。

そのことから目をそらして、目の前の一瞬を生きているだけだ。

向き合おうと思ったことすらない。

 

いつか死んでしまう。死んだら自我はなくなって、「無」なのだ。

死とは無だ。

それは初めから何もなかったのと同じ。生きなかったのと同じだ。

少なくとも死の当事者にとっては。

 

ちっぽけな生命だ。

自分1人死んでもなにも変わらない。虚しい。

死んだら生まれてこなかったのと同じになる。

 

でも、しかし、けれども、

だからこそ。

 

いま私が、いま出来る限りの力で、世界を愛おしく、思っていたいのだ。

だって生まれなかったかもしれない。生まれて来れてラッキー、なので。

 

ピース。

 

そういうのが、目には見えないけれど、なんというか、うつくしいと思っていてね。

 

うつくしいものは、儚いけれど、儚いからこそ、うつくしいのだと思っていてね。

 

うつくしさなんて、論理的でない、真実には関係ない、主観の話は今はしていない。

なんて言われてしまうだろうか。

それは、なんというか、つまらない思いをさせて、論点がひどくずれていて、ごめんね。

 

でも、それでもやっぱり、

逆接からの「だからこそ」は、うつくしいよ。

たった一瞬、たまたま「私」であるだけのこの短い何十年が、いつかおわってしまうからこそ、でもだからこそ、私は愛おしいよ。