きらいのはなし

弱さを知らない大人がきらい。人を見下す人間がきらい。何も見ず、何も聞かず、何も考えないままで簡単にわかったような口をきいて人の感覚や思考を決めつけてくる人間がきらい。正論を正論として振りかざす人間がきらい。

 

きらいきらいきらい。と思った1週間だった。

私が言われたんじゃなくて、私が大切にしている人間たち、子どもたちが私越しにそう言われたから、腹が立って涙が出そうになった。手も出るかとおもった。なぐるぞ。けんかするぞ。こん棒をもってこい。とげとげのこん棒を。

 

人をきらいになることが滅多にない。そう思ったんだね、そう感じちゃったんだね、ふーーん、としか思わないから。

何か納得いかないときは感情を排除して理論立てて具体的に伝えるようにしてるから。伝えて受け入れられなくても、まぁ私は伝えたし、他人が自分の思い通りに動くほうがおかしいし。それならそれで。

ってすん、と落ち着くから。

 

いったんきらいになったけど、でもまあそれもその人の感じ方だし、私やあの子たちにとってもそうであるようにその感じ方はその人だけのもので私が何か言う権利はないし、邪悪からは自分が立ち去ればいいだけだし、やっぱりいつものように、すん、ってなってる。

 

裏を返せば誰にも何にも期待してなくてつめたくさみしいのかもしれない。

でも、個人の価値観の尊重、尊敬、って少なくとも私は、それがあるほうが、すきなんだよな。

ないならないで、それでもいいよ。

 

やっぱきらいってうそだった。

安心安心。

きらいって、心のここんとこがカッサカサになるから、できるだけないほうがいいよな。

余計なものに足をとられず、のびやかにいこうって思う。

 

もう泣くな。もう泣くなよ、いいかね。

nu mai plunge nu mai plunge

-Tristan Tzara (トリスタン・ツァラ)

 

 

 

読書会のすすめ

2日連続ですきな本屋さんの読書会に参加してきた。他のすきな本屋さんのを合わせるともう10回以上は読書会に行ってる。

読書会王に、おれはなる。

 

読書会の何がいいかというと、

 

読書って、本に出会って、選んで、読もうと思って、読んで、自分でページをめくって読み続けて、という過程があって、能動的な行為で、その人の感情や思考の1番近くにあるものだから、だから人の内側のことを知ることができるのがおもしろい。

 

「本棚を見ればその人の精神構造がわかる」

出典は不明だけどそんなことを聞いたことがある。

 

そういうのを共有して、自分も読んだことあるのだったら嬉しくて、自分の受け取り方と相手の受け取り方を比べて、人の受け取り方をおもしろがって、自分の受け取り方をおもしろがってもらって、もう幸せ。

全然知らなかった分野の本を紹介してもらって、それについて楽しそうに話す人を見るのも、話を聞くのも幸せ。

本を起点に、何かひとつのことについて意見を交わすのも幸せ。

紹介された本を読んで、次の回に報告して、それで感想を分かち合ったりするのも。

 

それから私の場合は、読書会でみんなに話す本を本棚から引っ張り出して、みんなに話すと、その本のことを思い出して読み返して、もう一度「自分の本」になるから嬉しい。

最近だと夏目漱石草枕』や吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』を紹介したら読みたくなって、ああ今読めて良かった、となった。

 

そういうわけで、読書会が好き。

紹介された本まだまだ読みたくて、アーヨモーーーーってその場では思うけど全部に思ってしまってなんにも足りない。時間とか。でも本は読みたい。読まなきゃ生きてる甲斐がない。

 

今読んでていちばんおもしろい本これです。

ずっと読み進めてるけどまだ半分くらい。

時間ほしーーー

カイシャは読書休暇を年に100日付与してくれ。

荒野へ (集英社文庫)

 

 

 

 

 

さいきんのはなし(060405)

ゆらぎゆらいだ気候がようやく安定して、「もう大丈夫」って思えるくらい春になった。

 

勤めているフリースクールでは、開設して1番最初に入会してくれた子が卒業して、なんだか感慨深いきもち。中学校3年間うちのフリースクールで過ごして、秋に私が推薦書を書いて、無事推薦入試で合格した。4月から高校生。

 

がんばれ。がんばりすぎないで。幸せになってね。

なんていろんなごちゃまぜの感情で見送る。

もう会えないってうそみたいだ。

 

4月のはじまり、楽しいことがたくさん、お花見して、トークイベント行って、読書会行って。

まちのこと、文化のこと、なんかぼんやり考えさせられる。

トークイベント良かった。ずっとメモとってたら、トークゲストのひと最後のコメントで「まとめられるの嫌い、悶々として帰ってほしい」って言ってて、すいませーーーんとなったけどまとめちゃったし振り返りに役立つしお友だちのみなさんにだけ共有しちゃった。

おれたちってお友だちでいいかな。

「友だちって何?」ってフリースクールの中学生たちにそういえば最近聞かれて。

「私が〇〇ちゃんとフリースクールじゃなくて他の場所で出会って、このくらい仲良くなったら友だちだったよね」って言った。

「むずかしいねえ、」って結局大したことは言えなかった。

友だちってなんだろうねえ、答えのない問い、うまく言葉にしたいよねえ

「クラスの子たち誰とも友だちじゃない。フリースクールでいつも仲良く話してる子たちも友だちかどうかわからない。だって私のこと相手は友だちって思ってないかもしれないし。」って。

 

なんかわかる気がする。けど、大人になったら友だちか友だちじゃないかなんて結構どうでもよくなると思うんだよな。友だち、って子どもの頃だけの概念な気がするよ。契約とかじゃないし、気づいたらなってるし、信頼ってそうだな。なんか。

そのときはなんか、うまく言語化できなかった。

もう少し考えて、14歳にもうまく伝えられるようになりたい。

14歳も自分の言葉で自分なりの答えにたどりつく思考体力をつけてほしいな、と。苦しくならずに自分の答えにたどりつけますよう。

私はけっこうじたばた泥臭くもがいて、なんだかんだ今もずっともがいて、今の自分にたどりついたけど、考えることって本来痛くも苦しくもある必要はないんじゃないかしら、と30歳になって思う。

歳をとったら丸くなるとかいうけど、こういう仕組みなのかなぁ。

生牡蠣のような感受性。茨木のり子の詩に出てくるフレーズ、私はそれを失っていくのかなぁ、でも痛みや苦しみから解放されるのは良いことだとも思う。

むずかしいねえ、

むずかしいままでいいとも思う。

あいまいなままで。答えなんて出さなくて。

 

シャボン玉みたいに生まれては消えて、いろんなところに漂ってく思考を、他人事みたいにぼんやり眺めて、この大好きな季節は束の間に過ぎていくんだろう。

父に末期の癌が見つかって、余命宣告されて、春に桜の前で遺影を撮ろうとしたんだけど、桜のきれいなとこについていざカメラを構えたとき、「桜と一緒に散るみたいな気がしていやだ」って駄々こねたからやめたらしい。

遺影は結局何年も前の親戚の結婚式に行ったときの集合写真から切り抜いたものになった。

父が死んで7年経つけど、毎年母がその話をする。

「死んだらあの世に桜をもっていきたいから」って、桜の前で遺影を撮ってほしいと言う。

遺影に写った景色をあの世に持っていける、って、なんかロマンチックで素敵だな。

 

死後の世界ってあると思う?

死んだことある人っていないからわかんないけど、わかんないものをわかんないまま、「そう信じた方がやさしいから」って信じるのは、人間のかわいいところだと思う。

明らかにされすぎないでほしいよね。

 

明らかにならないこと、価値を測れないこと、あいまいなものが追いやられていって、小さく窮屈になっていって、続けられなくなったら終わっていく。

人間が生きていること自体、意味わかんないわけわかんないあいまいなものなんだから、そのあいまいさを受け入れて「束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」と私は思うんだけど、人びとがあいまいさを「住みにくさ」と捉えてしまっているからどうも食い違うんだろうなぁ。と思う。

 

対立するのも面倒だから、「娑婆・・・」と薄目で見るようにしてきたけど、30歳、人生の序論を終わって本論を書いていきたいから、娑婆にも足を踏み入れていきたい気がする。

娑婆で泣いてる子どもたちが、親御さんがいるのは事実だし。もうだれも泣かないために。昨日よりやさしい世界をちょっとずつ。という気持ち。ぼんやり。ぼんやりと思ったりする。

 

 

 

 

 

さいきんのはなし(060318)

コロナに感染して4日間仕事を休んだ。

いままでかかった病気の中で一番つらかった。

小2のときに扁桃腺とる手術して1週間入院したんだけど、ぜったいそのときより全然喉が痛くて、唾飲めないし固形物食べられないし高熱だししぬかとおもった。教員してたときの夏休み1度だけ39〜40度の高熱が5日間おさまらなかったときあったんだけどそのときより全然きつかった。あとやばい色の痰がずっと出てて「痰 色 やばい」で検索してた。IQがひくい。

 

しにそうなのに全然仕事してて、今週このスタッフでなんとか休業にせずにできるかとか、開所時間は変更したほうがいいとか、その連絡とか。

いつも私の宛名で返信あるんだけど、今回ばかりはおきゃくさまたち私の宛名ではなく「スタッフ様」で返してきてて、「でもわたしなんだよなー」と思った。

「39度の熱あるのに、わたしなんだよなー・・・・・」このやろうめ。

 

寝込みながら仕事はしてたけど強制的に一旦立ち止まって、自分がキャパオーバーだったことに気づいた。

キャパが、オーバーしているぞと気づくことができた。

 

というわけで、詰め込み方を変えてみることにした。

今何にメモリ食ってるのか考えてみる。それに対してどういう感情を抱いているのか観察してみる。

感情や思考のループしんどい場合は「やめる」のではなく、「とめる」をしてみる。

 

飲まれず飲み干していく。酒といっしょ。

 

めんどくっっっっせえええけどやらなきゃ進まないことについて、「やるしかない」というシンプルな答えを得た。IQがひくい。

 

日々、感情労働が結構しんどい部分があるけど、でもだからこそ学びも多いし、自分にしかできない「良い仕事」があると信じる。「居てよかった」になれると信じる。

私が負けないことが、だれかの光になると信じてみる。

それは自分がやはりずっと、今ここに流れ着くよりずっとずっと前から望んでいたことだったので、かなり正解っぽい。

 

全部ひっくるめて力になって、それで、いつかユリイカ、体の中を通り抜けるように、解ると良いなと思う。ずっと焦がれてきた透明に、手が届くと良いなと思う。ほんとうのことをたしかめながら生きていきたい。言葉じゃなくて、生きている感覚全てをもって。

そういう、ロマンチックな夢をもって生きている。

 

わかりたい。わかりたくない?人間のすばらしさ。

 

 

なみのりのはなし

気温の波が、変化の波が、どんどん押し寄せる季節。気分も体調も、波に揺られてどうも安定しない。

 

大人として生きていることについて、実感として、海に1人でぷかぷか浮いているイメージ。

島が点々とあって、どの島に上陸しようか、と。そこに永住するか別の島に移るか、自由に決めてよい。

とりあえず目の前に見えた島におりて暮らしてみる。

 

島に辿り着くまでに波にのまれておぼれてしまうこともあるし、上陸したはいいけどやっぱり思ってたのと違うこともあるし、別の島に移る労力や移動先の未知のリスクとこの島の居心地の悪さを天秤にかけて葛藤することもあるし。

 

海の中に居るときは孤独で、不安で、波にのまれて誰にも見えないで知られないでひとり沈んで行ってしまうんじゃなかろうかと。

 

波が来たときに、恐れて動けなくて黙ったままもみくちゃにされるのではなくて、サーフボードかまえて力込めてサッと乗ってみたらいいと思う。

ビッグウェーブ、その幸運にニヤリ笑って乗りこなしてしまいたい。

きっと高い波の上から、見たことない島が見えるんだろう。

風が凪いだら仰向けになって波間にただよい月夜を眺めてみるのも良いだろう。

 

海で、島で、たまたま出会えたみなさま、沈むことなく、押し寄せる波にひるむことなく、各自お気に入りの島に辿り着きましょう。

 

そこで会えたら、お互いを讃えて乾杯でもしましょうね。

 

なんでもないはなし

日々がとぶようにすぎていくし、頭の中はずっと忙しいし、でもかろうじて地に足ついているかんじ。

 

死のことかんがえてる。死のこと話したから。

死は私にもあなたにもいつかおとずれるもので、みんな例外なく死のことかんがえる。生きていたら死ぬ。

死のこと考えてる?

 

死のうとしたけど助けられた人の話も聞けた。

死のうとした人を助けるのはナシだと思ってたけど(その人の前でそう言ってしまった、傷つけてしまわなかったかとあとで少し心配になった)、死のうとして助けられた人は助けられてよかったと言っていた。

助けてくれたのが家族だったそうだからまぁそうか、とは思うんだけど、赤の他人が助けるのはまじでナシだとおもうし、ましてやそれで社会的にほめられるのはなんか腹立つ。

それとも赤の他人でも、助けてくれてありがとうって思うんだろうか。

そんなことをぼんやり考えていた。

 

死のことかんがえてることについて、「大丈夫!?」「話きこうか!?」ってなる風潮について、好きじゃない。やさしいけど。

死はそう言うあなたのもとにも内在するのにって。

 

そんな暗い重いことかんがえてないで楽しいことしようよ、旅にでもでれば死のこと忘れられるよ、っていうのも好きじゃない。

死のことかんがえるのしんどいのもわかる。実際、死のうとしたことある人がそれについて語るときちょっと泣きそうになってたし、他の人で家族の死のこと語った人もその話聞いてる私も少し泣きそうになってしまったし、わたしも死んだお父さんのこと話すとたぶん泣いてしまう。

というか死のことかんがえてしんどくなるなら全然かんがえなくていい。

 

死は悲しくてつらいものだろうか、でも全員のもとにあるのに?とやはり我に立ち返って思ってしまう。

 

死のことを考えることで生のことを見つめ直すのはありだと思うし、いちばん希望ではあるけど、私、生のこと見つめ直すのとはぜんぜん別に、死のこと考えてたい。

温度のある感情とは別に、もうひとりのじぶんがいる。

 

もうひとりのじぶんがずっと、「だって」「ちがうよ」って駄々こねて、黙ってくれないので、黙ってくれないおかげで、もっともっと強くなれる、納得に近づいていける、それでかろうじて生きていられる。

もうひとりのじぶんが黙ったら私、たぶん死にたくなると思う。

もうひとりの感情のない真っ黒な自分に答えていくことの積み重ねが、私をつくり上げていく。

 

 

 

 

 

 

さいきんのはなし(060211)

1月20何日かに絵を描き終わって送ってから、だいたい3週間くらいで仕事を2つ仕上げて納めて、読書会でまったりしたりワークショップに参加したりインタビューしたり友だちと焼肉行ったり1時間強のコントを1日に3回みたり、散歩を繰り返したり、身体に良いものを作って食べたり、ストレッチしたり、映画をみたり、した。

 

1月26日に理事長によびだされてそこで正式に(?)直接、来年3月末付で退職の旨を直接伝えて、言いたいことはっきり言えなかったこととかなんかいろんなこともやもやして、もんやりさんが大渋滞で、その日は笑いきれたけど帰宅後しばらく闇に堕ちていた。

 

あと1月末は面談ラッシュで、やはりおうちの人たちはしんどくて、うちをめちゃくちゃ頼りにしてくれていて、今後何年も利用するつもりだから心をノコギリでずっとギコギコされているかんじ。いつか思い出になる。

 

中学生が他の施設とほぼ同時期に開始で併用してるんだけど、「もうひとつのほうでは全然しゃべらなくて礼儀正しいおりこうキャラだからぜったいもうひとつの施設にここでの様子言わないでくださいよ!」って口止めされたの嬉しかった。

私とはくだらんことでげらげら笑って、めっちゃ早口でオタクトークしてくれるので。

リスカのこと、睡眠薬効かなくてつらいこと、言ってくれる。わたし良い仕事できているのかな。

よくパンチキックしてくる小学生男子は「しばさん最近弱いからたたかわない、やさしくする」って言ってきてかなり申し訳ない。やさしい。すき。ごめんね。ごめんね。精神的にしんどくて笑えてない自覚がある。 

 

いつか思い出になる。今までもそうであったように。

 

精神がしんどくてうまく笑えない、急に会話中とかに不安が込み上げる、みたいな不調以外は元気だし、仕事以外の活動はぜんぶうれしく楽しく、うまくいっている。

これからやっていきたいことの依頼がどんどん舞い込んでいて、わくわくするし、やる気にみちている。春だよ。春が来るよ。

 

事象だけ捉えればまったくもって最高人生、完全にオレのターン、コッカラッス

ってかんじなのに、精神がわるいのは、寒さがピークを打っており春の前の気象の揺らぎ、仕事の忙しさと子どもたちの不安定さ、1年後の辛さと「おれ人生どうしよー」の気持ち、てか結婚とか出産とかほんまにせんの?の気持ち、「三連休&バレンタイン直前のショッピングモール眩しすぎて失明した」「でも映画まじで良くて顔面びしゃびしゃになった、DVDほしい」

 

で、どうするの?につなげたいわけですが、

 

・ひとりでボーっとする時間確保する

・やらねばならないとあんまり思い込まない。手を抜く。

・「力への意志」に変換する。まだ強くなれる。

・インターネット見過ぎない。今日みたいに、昔住んでた場所で女子高生が車に引きずられて道路に血の跡が続いたとか、宅間守のお父さんへのインタビューとか、キツい記事をつい読み込んでしまったりしないように。

 

これらはずっと言ってるんだけど、なかなか難しいものでまいる。もう大人何年目よ。