何のための何 誰のための誰

少し前にもう仕事で会えなくなる同僚に勤務後話きいてもらって、洗いざらい話してしまって、めそめそ泣いてしまって、自分はこんなに情けなくぐだぐだの人生を歩んでるのかと思うほど、話す言葉のひとつひとつが弱くて、あやまりながら話しながらひどく恥ずかしい気持ちになった。帰ってからも恥ずかしくて「あぁ…」となった。

自分は人に気持ちを話したり悩みを話したりってあまりできなくて、子どものころからそうで、いつも聞く側で、聞くのはたくさんやってきて、いろんな涙を受け止めてきてたんだけど、そういったことができる人、機会、時間、ってあんまりなくて、そのときも、その人も、そんなつもりでは全然なかったのだけど、普通にこれが最後かーさみしいなーと思いながらさよならするつもりだったのだけど、

「これからもがんばってくださいね、というか、これ以上がんばらなくてもいいように、がんばってください」って言われたのでなんとなくぽろっと弱音が出て、2人きりだったのもあってなんか人生相談になって、やっぱ教育の人って人の気持ち引き出したり聞いたりするの上手で全部話してしまって、最終的に泣きべそかいてしまった。

 

少し前に卒業で勤務が最後の学生さんが就職の不安とか、生い立ちみたいなのとか、自分の弱さとかを見せてくれて、最後じゃなかったらもっと言葉を整理して次会った時言ってあげれたことあったかもなのに、、などと思いながらお別れしたんだけど、そのときの学生さんもこんな気持ちでこぼしてくれたんだろうか、と思った。

 

「泣けるときに泣いたらいいですよ」って言ってくれて、「(私)さんは、いい人なんですよ、いい人だからそんなにしんどくなってるんですよ」って言ってくれて、めちゃくちゃやさしくて激弱人間になってしまっていた。

 

自分の哲学だの思想だのをぜったいに推し進めていきたい気持ちでこれまでガツガツ生きてきたつもりだったのに、全然そうじゃなかったのかもしれない、と思った。

思い込みたかっただけなのかもしれない。自分のしょぼさをもっと受け入れて行くべきだ。

 

人生ってわからなすぎますね。

 

「一度立ち止まって、ゆっくりゆっくり整理したほうがいいかも」

「仕事のしかたとかも。効率化できるところもあるかもしれないし」

 

というアドバイスをいただいたので、ゆっくりゆっくり整理してみたいと思う。

そういった価値観の再確立(強化)や人生再構築にかかる負荷なら歓迎でいっか、という気もする。
 
何回転んだって起き上がって進んでいくしかないんだよな。
わたし「いい仕事」がしたくって、「居て良かった」になりたくって生きてるんだけど、そのために整えないといけないところ、ちゃんと嫌がらずに整えていこうと思った。
 
同僚、「これでお別れも寂しいし、またお茶でもしましょう、お話しましょう」って言ってくれたから約束した。次に会うときまでにちゃんと整えておこう、ちゃんと強くなろうと思ったのだった。ちっともひとりじゃないと思う。大丈夫。大丈夫。