不要の要

「置く/拾う」というテーマで絵を描いている。

 

何を置くか、拾うか、ずっと悩んでおり、結局決まらないまま描き始めてしまって(こういうのは初めてでドキドキする)、ざっと構図とれたところで今日やっと決めた。

 

最初は、果物かな、すぐに朽ちるもの。黄色が映えると美しいような気も。レモン畑でも取材に行こうか、落ちているレモン・・・と思ったり

 

植物、植える/摘むとしようか、種でも・・・

 

とか、ここ数ヶ月、頭がへんになるくらいめちゃくちゃ考えてたんだけど、今日、石、となった。(今のところ。描いてみておかしかったら全然違うものに変わるかもしれない。)

 

 

まばらに。静物。漂着物のイメージ。

 

うるさくならない程度にもう少し散らしてもいいかなと思ってアトリエの中のもの、いろいろ試してみて、40分くらいずっと置いたり拾ったりした。

 

ライブに行ったときもらったドライフラワー。海に遊びに行ったとき拾った貝殻。実家の父が拾って来た鹿の角。とか。

石は、何もわからなくなってしまって1人で近所の川に行ってぼーっとしてて何となく拾って帰ってきたやつ。

そういうの、“なんか良い” そういうの、アトリエに集めてたのだった。

巣なので。

 

そういう、“必要ではないけど手に入れたもの”がモチーフになって、そのことがすごく自然な流れのように感じた。そのためにここに集めてたんだよなぁわかる〜という感じがした。

後知恵バイアスっていうんだっけそういうの。いやそれとはちょっと違う気もする。

 

 

絵を描いているときいつも、「人生だ…」と思う。

思うだけなんだけど。なんの知見でもないんだけど。

なぜか深く納得することある。

 

 

理由が先にあって得るものってあるんだけど、たまたま手に入ったものとか、なんでもない現実逃避中の出会いとか、なんとなく惹かれて大事にしているものとか。

誰かから見たらガラクタのような日々とか。

そういうのっていつか何か、ギリギリで保てそうな繊細な何かを支えるときに使えるかもしれないよね。

 

構成が徒然草みたいになった。

 

 

仕事人間なのでやはり職場の子どもたちのことすぐ考えてしまう。あの子たちが学校に行けなくて私と過ごした日々もいつか何かを支える材料になったらいいよなと思った。

そうしなきゃ見えなかった未来があるといい。

 

それは自分自身に対しても。

必要なものばかり手に入れようともがかなくていいんじゃないかなぁ。

 

いま生きていることの遊び。不要の要。の話でした。

あせらないあせらない。ひとやすみひとやすみ。